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箱根駅伝

「箱根駅伝」 勝承夫氏が朗々と詠い上げた箱根駅伝

箱根駅伝の生みの親、金栗四三氏

箱根駅伝といえば「駅伝を讃えて」の詩人・勝 承夫氏が箱根駅伝を朗々と詠い上げた。母校の栄誉をタスキにつないで力走する箱根駅伝の選手たち。 しかし、箱根駅伝は思わぬハプニングで一瞬一瞬、箱根駅伝レ−スの局面は変化します。その度によろこび、涙する若い箱根駅伝の豹たち。その姿に、私たちも箱根駅伝のよろこびと涙を彼等とわかちあうのです。箱根駅伝の生みの親は、マラソンの父と呼ばれている金栗四三氏です。金栗氏は、マラソンの普及に力を尽くすことを決心し、その思いを形にしたものがこの箱根駅伝であり、大正9年に第1回箱根駅伝が実現しました。

第1回目の箱根駅伝は、明治大学、早稲田大学、慶応義塾大学、東京高等師範学校のみの参加でした。 2月14日午後1時に東京・有楽町の報知新聞社(現そごう百貨店)を出発。箱根駅伝、小田原の中継点に真っ先にたどり着いたのは明治の沢田英一選手でした。続いて東京高等師範・大浦留一選手、早稲田・三浦弥平選手。そして4位の慶応・二木謙三選手通過。ゴ−ルまでは20.7キロメ−トル。いよいよ箱根駅伝、最大の難所・箱根山(5区)にさしかかるわけですが、当時はまだ箱根駅伝コースの道路は舗装されていませんし、冬の6時過ぎといえば箱根の山道は真暗です。そこで箱根駅伝コースの山道になれている小田原中学(現小田原高等学校)の生徒が伴走したり、箱根の地元の青年たちが松明を振ってコ−スを教えたり、選手が通過すると鉄砲を打って知らせたりと大活躍。深々と冷え込む箱根山をひた走り、最後の二木選手がゴ−ルに到着したのは午後9時53分31秒という厳しい箱根駅伝レ−スでした。

第1回、箱根駅伝の往路を制したのは明治大学、7時間30分36秒。平成13年第77回箱根駅伝、往路1位は、法政大学、順天堂大学とデッドヒートの末に、大逆転を果たした中央大学の5時間43分。凸凹の砂利道を足袋で走った箱根駅伝、第1回と、完全舗装された道路を最高に改善されたシュ−ズを履いて走る現在、この驚異的な箱根駅伝の記録更新はまさに80年間の著しい箱根駅伝の環境の変化を物語っています。

箱根駅伝はお正月の風物詩!

お正月は、箱根駅伝を見るというのが、日本の風物詩になったといってもよいほど、箱根駅伝は駅伝ファンだけではなく、全国のお茶の間の人たちをも魅了しています。箱根駅伝の選手たちが母校の名誉と自己実現のために走る姿は、見ている人にも"今年もがんばろう!"という勇気と希望を与えてくれます。私たちは箱根駅伝を応援します! 箱根駅伝は、往路107.2km、復路109.2km。今年の箱根駅伝はどんな物語が生まれるのでしょうか。「箱根駅伝ってなに」「箱根駅伝コース」「箱根駅伝の歴史」をごゆっくりとご覧下さい。

箱根駅伝ってなに?

箱根駅伝は正式名称を「東京箱根間往復大学駅伝競走」といい、東京・大手町〜箱根・芦ノ湖間の往路5区間(107.2km)、復路5区間(107.5km)の合計10区間(214.7km)で争われる、学生長距離界最大の駅伝競走のことです。 箱根駅伝は大正9年(1920年)に始まり、平成9年の今年で73回目を迎えました。

箱根駅伝は、この間若干のコースの変更や開催日の変更等もありましたが、最近では1月の2日、3日の両日合計214.7kmで箱根駅伝のコース・開催日は定着しています。また昭和62年の箱根駅伝第63回大会からTV中継も始まったことから、箱根駅伝はすっかり正月の風物詩として国民の間で定着しました。

関東学生陸上競技連盟(関東学連)に加盟している関東の大学であれば、どこでも箱根駅伝に出場する資格はありますが、箱根駅伝に出場できるのは15校(65回や70回などの記念大会時には20校)。そのうち9校は前年大会で9位までに入った大学がシードされるため、シード校以外の大学は箱根駅伝予選会から勝ち上がってこなければなりません。 箱根駅伝は有名ランナーも多数輩出しており、早稲田大学からは瀬古利彦選手(第53回〜第56回)や渡辺康幸選手(第69回〜第72回)、日本体育大学からは谷口浩美選手(第57回〜第59回)など、枚挙にいとまがありません。

現在の各大学の監督、コーチもほとんどが「箱根駅伝」経験者であり、ちなみに山梨学院大学の上田誠仁監督は、第55回、第57回大会順天堂大学優勝時の5区のランナー。また早稲田大学の遠藤司コーチが第60回大会で記録した10区の区間記録は、現在も破られていません。

箱根駅伝コース

第1区(東京・大手町読売新聞社前〜横浜市鶴見区鶴見市場派出所前21.3km) 1区は、その後のレース展開を占う意味でも重要な区間です。各校ともスタートダッシュを図るため、最近はスピードランナーを配してくることが多いです。全体的にコースは平坦で、強いてあげるなら7.5km付近のJRに架かる八ツ山橋と、終盤18km付近多摩川に架かる六郷橋に若干の傾斜があります。鶴見中継所まであと3kmということもあり、この六郷橋の下りを使って前のランナーを抜くなどの勝負に出ることが多くあります。 第2区(鶴見市場派出所前〜横浜市戸塚区古谷商事前 23.0km) 2区は、「花の2区(「華の2区」と書く場合もある)」と呼ばれ、区間距離23.0kmは箱根駅伝の中で最長区間です。そのため各校ともエースランナーを投入してくることが多く、最近では早大・渡辺康幸選手と山学大・ステファン・マヤカ選手など、ライバル同士の一騎打ちが見られるのもこの区間ならではの場面です。14km付近の横浜横須賀道路のガードを過ぎたあたりからの「権太坂」と、20km付近からの3kmに及ぶ上り坂は、この区間の一番の見せ場です。 第3区(古谷商事前〜平塚市花水レストハウス前 21.3km) 3区は、藤沢市、茅ヶ崎市を経て平塚市へ至る区間です。

国道1号線から分かれ、県道30号線を経て12km地点の浜須賀交差点を右折すると、そこには左手には湘南の海、正面には富士山という箱根駅伝随一の景観が広がります。いわゆる湘南通り(国道134号線)です。しかしここでの海風は曲者で、ペースを狂わされてしまうランナーが多いです。第4区(花水レストハウス前〜小田原市鈴廣前 20.9km) 4区は、平地区間では最も短いコースです。

しかし近年は、この区間が往路第2の勝負ポイントとなっています。というのも、2区でのエース投入がパターン化した今日では、各校とも実力が拮抗し決定的なリードがつきにくくなっているからです。そこでこの4区に準エースを投入することで、好位置で5区の山登りにつなげようとの作戦をとる大学が多くなっています。第71回(平成7年)の早大、小林雅幸選手の起用なとがこの例です。 第5区(小田原市鈴廣前〜箱根町芦ノ湖駐車場入口 20.7km) 通称「山登り」といわれ、他の駅伝にはない箱根駅伝最大の見どころです。標高差775mを一気に駆け登ります。平地とは違い独特の走法を求められるため、選手は「山登りのスペシャリスト」と呼ばれます。途中、箱根小涌園の宿泊客や恵明学園の子供たちの声援を受けながらひたすら登り続けますが、16.3km地点を過ぎると一転して下りとなります。ここでうまく「ギアチェンジ」できるかどうかが、その後の4kmひいては翌日の復路への貯金をどれだけ残せるかに大きく影響します。「旧東海道杉並木」を抜けると、まもなく応援団の待つゴールです。

箱根駅伝の歴史

箱根駅伝は始まりは、明治時代までさかのぼります。当時、始めてオリンピックのマラソンで日本代表になった金栗四三選手が「オリンピックで日本を強くするには長距離、マラソンの選手を養成することだ。しかし、マラソン走者を一度にたくさん作るには、どうしたらよいだろう」と考えました。その中で彼はリレー種目を思いついたのでしょう!リレーなら一度に沢山の選手を作ることが出来る!そこで彼は駅伝開催に向けて動き出しました。丁度その頃彼は出身の小学校の審判として招待されていました。

山口六郎次、野口源三郎、沢田栄一らが列車に移動中に駅伝大会の開催について話し合われた。その時、金栗さんが「将来はアメリカ大陸横断の壮挙を決行するが、まずは選手選抜のため東京の13大学、専門学校を集めて予選会を開こう。しかし約5万円の資金が足りない」と言い、そこで彼は報知新聞社にスポンサーを頼みました。その後、金栗さんは早稲田・慶応・帝國大学の代表者と話し合いをし、結局、期日は大正9年2月14、15、第1回は明治・早稲田・慶応・高師の4校で行われる事になりました。

これが第一回大会です。第一回日比谷〜箱根間四大校駅伝で行うこととなりましたその中で彼らはルールではなく約束をしました。一つは「われわれ学生の大会であるから午前中は学校で勉強、午後1時から走ろう」もう一つは「審判がいなくてもルールを破る奴がいる筈はない」しかし蓋を開けてみれば各校、山でどうやって近道をするか作戦をたてていました。その後、駅伝大会は盛り上がり、五輪へ巣立つ選手も沢山輩出しました。

昭和15年に日大が優勝した後、9月に日独伊三国同盟が結ばれ、戦争へと流れていきました。翌年には駅伝開催も困難になり、箱根路は軍需品の輸送などの理由で使用が禁止されました。しかし昭和16年には明治神宮水泳場と青梅にある熊の神社を往復する東京青梅間大学専門学校鍛錬継走大会を実施、同年11月には第2回大会を実施。両大会とも優勝は日大。しかし戦争は広がりを見せ20歳以下の男子は戦時訓練が行われるようになり、翌、昭和17年にはスポーツ大会の一切が中止となりました。しかし、そんな中でも昭和18年には再び紀元2603年靖国神社・箱根神社間往復「関東学徒鍛錬継走大会」が行われました。この大会は戦争での勝利を願って開かれました。この大会では日大が優勝。その後、日本の情勢悪化などもあり、昭和21年までは中止になりまし。復活の大会は昭和22年、食糧難、人材不足などに悩まされましたが大会を開催。選手のそろわない学校も多く、砲丸投げや短距離の選手なども出場しました。

その後、昭和28年からはNHKラジオの放送が始まり箱根駅伝は日本の国民的スポーツへと成長しました。

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